センター街の最果てで、愛を唄うギャル男 UME-SHAN  ギャル男論のポイント・ギャル男から哲学(実存を考える)する。  ギャル男論の好きなところ・P385後半部分 倒錯の強い定義について倒錯とは、精神分析/神経症など諸々で人間を考える時に使う言葉。倒錯の強い定義(メタ倒錯)とは、そういった言葉(精神分析/神経症)の内部と外部などを考える時に使う言葉。 章タイトル 0:どうでもいい部族 Introduction-Trival Tribe 1:分離してー女装する女性の分身にーなる。 2:エアへッドネス 3:「クール・ジャパノロジー」とファッション論 4:否認的な排除ーラカン派の現在とドゥルーズ+ガタリ 5:倒錯の強い定義 6:『動物化するポストモダン』のクィアな解釈 7:分身性、存在論的ハッテン場、社会の持続の多孔化 キー概念乱交性、分身性、倒錯の強い定義(精神分析とその圏外、クールジャパノロジスト達の論理と、その無理) 読むといい順動機:(ギャル男を考えることで)動物化するポストモダンの更新をする。 3:和風ポストモダン論の状況把握 4:和製ポストモダン論(動物化するポストモダン2.0)の乗り越え(ではなく診断である)(ジャパノロジーロジーの倫理) 5:iの部分から、日本の理論の無理を自覚している(メタ倒錯)以上の、「動物化」論は社的/再生産=生殖のみを考えるという条件下においてのみ一定の妥当性をもつ。(p392)6萌えの再定義p395を提出 →どうでもよさの中心(何故人はオシャレするのか。一般化) →0127 章メモタイトル:クール・ジャパノロジーとの接続とその乗り越え0:ギャル男とはいかなる存在か。「女ウケ」や、「頭のからっぽさ」そのマイナスイメージを転覆させる宣言。たむろし「どうでもよくなること」こそがギャル男達からの問いかけそのものである。 1:「センターGUY」から考え「乱交性」→「無責任な分身の乱立」それが良かれ悪しかれクール・ジャパンの無視できない側面ではないのか。(P381上段)。(これもしかしてv系からじゃね?)そして、これを批判するのではなく、診断しなければならない。(人よ、ブヒ(っているかのようにあ)れ。) 2:女性の女装の症例「ガングロ」(男性の視線の嘲笑としての)個人的には女前という言葉を考えたい。ヘルタースケルターのあれこれも考えたいね。 エアヘッドネスについて、「身体の虚構化(=キャラ化)」を考える。「自らの実存を身体のイメージ操作いよってエアヘッディングすること。私たちは、過去のトラウマに基づいて悲喜こもごもの人生を演じながら同時に、そこから自らを揮発させる―無責任に‐なる―、すなわち自らに密着した外部としての、切られても痛くない余白としてのヘアを分離させるのである。あるいは自己の別室を分離させるのである。」実存が軽くなってしまうことの話し 3:ゼロ年代とファッション論、宮台→東→宇野(千葉)の流れ。(文脈の整理)(どうでもよくしていく)クール・ジャパノロジーとその共同体に政治性を認めるか否かが争点となる。[→7のチャラ打ちに接続]そのどうでもよさを分離して(どうでもよくなくして)考える(非政治性の政治性)を考えることが重要なのだ? 4:「別の仕方での欲望」というラインについて。前章で確認したクール・ジャパノロジーのライン(宮台→東→宇野)と浅田→宮台→東→千葉という「別の仕方での欲望」についての思考ラインである。 分裂症という思考そのものが「かのように」という思考→クール・ジャパノロジーそのものを分裂症的に考える千葉 5:倒錯の強い定義 かのように扱う魔法。動ポモの抜けを確認。「異性愛ー生殖規範性」への「固着」のみを動物化と呼ぶのは不十分である。 6:萌え1.0とは、精神分析的な倒錯よりもずっと軽くてどうでもいい(メイドさん萌え)→クィアな動物化の思考:萌え2.0とは、何故萌えているのか理由が多すぎてもはや忘れる。(もしかしたら、萌え1.0が説明可能なものという意味で恋で、萌え2.0は説明不可能なものという意味で愛ではないか?) 7:分身して自らをくり抜く動物達たとえば日本の一つの可能性として思弁している←かのようにみえる 実存の耐えられない重さ(性別のリアル)を考えない。fashionistaのギャル男論→身体=髪型という、実存がかかる場所をすり替える事で、軽くする?