Archive for: 9月 2013

【東京支部】インターネット史について語る会


関西クラスタ東京支部のpacocatです。

9月は16日に『風立ちぬ』を語る会(twipla)、『ウェブ社会のゆくえ』読書会(twipla)と関西圏でイベントが目白押しですねー。

東京支部も『なめ敵』読書会、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』読書会など開催してきましたが、たまには趣向を変えたイベントを開催してみようかなと思ってます。テーマはずばり「インターネット史」。

テーマ広すぎやろ!っと突っ込みをしたくなる感じですが、あまりにも語るべき事柄が多いからこそ、ネットにまつわる雑多な興味を雑多なまま話し合う機会があってもいいのかなーなんて思いました。「ネットの歴史と他分野をつなげたい」「自分のネット体験について語りたい」「ネット上のアート作品について話したい」などなど、モチベーションはなんでも自由です。みんなでインターネットの周辺を語ってみませんか?

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そんな読書会(語る会?)の会場は恵比寿のナディフアパート4FにあるBar Mudai。普段はギャラリーとしても使われているスペースで、今回のイベントに向けて特別に場所を提供してくださいました。大きいプロジェクターが設置され、ふかふかクッションがたくさんあるオシャレ空間です。バーでまったりしたい人も含めどたなでも参加歓迎ですので、インターネットを肴に議論してみましょう。

【プログラム】

発表してみたいテーマのある人は、@kansai_ct までご連絡ください!
発表は各自質疑込みで30分程度、その後はみんなで議論という形式になります。

発表者 内容 参考書籍
@tokada 教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書 『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』(ばるぼら)
@siskw インターネット史と接続するアーキテクチャー史
@pacocat 東海岸vs西海岸:インターネット黎明期の場所性と政治性について 『ハッカーズ』(スティーブン・レビー)
『ハクティビズムとは何か ハッカーと社会運動』(塚越 健司)
@jamais_vu “文化先行型”としての日本的インターネット

【参加方法】

参加される方は以下のいずれかの方法で参加表明してください。

  1. Twiplaで参加表明する(リンク
  2. twitterで@kansai_ctにリプライを飛ばす

*参加費は1000円(1ドリンク込み)になる予定です。

【日時】

2013年9月27日(金) 20:00〜23:00頃(バー自体はその後も営業しています)

【場所】

bar MUDAI
東京都渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff apart 4F(1Fに本屋さんがある建物です!)

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【注意事項】

  • 入退出は自由です。

  

【関西クラスタレコメンリレー】第3回 福田和也『悪の読書術』by @shohei0308


0.はじめにー

 

 どうも,しょーへです。

 今回、レコメンする本は、福田和也の『悪の読書術』レコメンしてくれたのは、コロンブスさんですー。

 実は、ぼくは、福田和也って読んだことなかったんですよね。

 単著としては。以前から興味あったのですが、なかなか機会がなくて・・・。

 レコメンリレーで読むってことにならなかったら、ずっと読まなかったかもw

 しかし、今改めて再読しても、面白い本でした。

 この本のテーマはSNSが一般化(とまでは言い過ぎ?)した現在だからこそ読まれるものだと思います。

 この本の主題は、

 「読書は、プライベートな体験だと思われがちだけど、実はソーシャルなものなんだよ」ってことです。

 ちなみに今回は、本の内容についてはほとんど触れないですw

 では、以下本文ー。

 

1.「私って読書好きなのー」「え、何読むの?」「伊坂幸太郎とか、森見登美彦とか」 −キャラとしての読書術−

 好きな作家に伊坂幸太郎とか森見登美彦とか挙げられるとイラッと来るその手の人っていますよね。まあ、そういう人をぼくは、「読書好き」(自称)と呼んで分類しています。

 世の中には、不思議なことに「読んでいるだけで、頭が良い人のように錯覚してしまう本」と「そうでない本」の2種類が存在しているようです。実際、本を読むだけで頭がよくなるなんてことはないと思うわけですけど、実際にそうした分類がされてしまっているようです。

 UNIQLOとかH&M といったファストファッションに身を包み、外見的には、「みんな一緒」に見える(とか言ったらファッションクラスタに怒られるけど)中で、逆にこうした趣味とかが、友人をつくる上で重要なツールになってきているってことはなんとなく、想像ができます。

 

 そういった意味で言えば、外見的にも、内面的にも自分がどう見られているかっていうことに自覚的で他人のイメージを操作できる人間がいわゆるコミュニケーションがうまい人ってことになるのかもしれないなーって思うわけです。

 

 色んなジャンルの本を乱読してデータベースをつくっておけば、TPOに応じた本好きキャラをそこから借りてこれるわけですから、まあ、どんな人ともある程度の「おしゃべり」は出来るわけです。こういった社交術としての読書は、使いこなせれば、すごく便利なものです。これをぼくは、「キャラとしての読書術」と呼んでます(嘘です

 

2.読書のデータベース化とソーシャル化 ー「読書メーター」「ブクログ」

 上に述べたようなことは、「コミュニケーションの手段として、読書は非常に重要なツールになってきている」というよりも、「何もかもがコミュニケーションの手段でしかなくなってきている」と言ったほうが正しい表現になるんじゃないでしょうか。

 

 深夜アニメの実況も、アニメがコミュニケーションの手段となっている一つの例ですし、あまちゃんTLもそうですし、風立ちぬ感想ツイート合戦とかなんかも、コンテンツそのものを受容しているというより、コンテンツを介したコミュニケーションを志向しているということなんですよね。

 

 まあ、そういう文脈で言えば、「読書メーター」とか「ブクログ」といった読書アプリは、読書経験が「プライベート」なものでなくなっている一つの証だと思います。

ブクログ

読書メーター

 こういったアプリでは、読書経験をデータベース化し、見えるようにすることで、読者間のフィードバックを生まれやすくすることに成功し、読書をゲームのように楽しむことができます。

 

 本当に本だけが好きな人であれば、図書館で引きこもって本を読んでいれば、いいわけです。だけど、面白い本に出会ったら喋りたくなるのは、人の性っていうもの。そういった欲望をうまく捉えたのが、こういったアプリだと思います。

 

 自分は、電子書籍によって「本」というメディアの形式が大きく変わることはほとんどないと思います。それは、本というメディアが人が情報をインプットする上で、優れていると思うからです。

 

 もし、電子書籍に音楽や動画を詰め込んで情報量を増やしたとしても、人が情報を「読む=処理する」スペックは、今までと変わらないから、結局「読みづらく」なる。だから自分は、紙の本は無くなったとしても、本というメディアの「形式」は大きく変わらないと考えています。

 一方、「読書経験」については大きく変わっていくだろうと思います。今まで、個人的だった行為に、データベースによる見える化とソーシャルなフィードバックという概念をうまく持ち込むことで、読書経験が大きく変わっていくだろうと思います。

 

 例えば、多数の人の本を読むスピードを平均値化することで、ある本の平均読書時間を算出して、時間のあるときに読む本やないときに読む本を選んだりといったことも出来る。リアルタイムで、同じ本を世界中に何人が読んでいるかということがわかって、Twitterでフィードバックを受けることが出来るようになるかもしれない。

 まあ、あくまでも、自分の単なる未来予想図でしかないわけですけど。

3.というわけで読書会−コミュニケーションツールとしての読書から読書会というコミュニティをどうつくるかについて−

 読書っていうツールが、コミュニケーションの一つの手段として有効だっていう話をしてきたわけですが、次に、さらに踏み込んで、読書によるコミュニティについて考えてみたいと思います。

 

 言ってしまうけど、人を集めるのは、結構簡単です。SNSなどの動員のツールは溢れていて、以前よりも人を集めるコストは明らかに減少したと言えるでしょう。ビバ動員の革命(おい)

 だけど、そこから、コミュニティを維持するということになると一気に難しくなるわけです。例えば、コミュニティのメンバーが減ったりとか、コミュニティ内の不和が起こったりだとか、メンバーのモチベーションが無くなってしまったりだとか、経済的な要因で続けることができなくなったりだとか、これはどのコミュニティでも言えることで、コミュニティを維持するのは、難しいわけです。

 良いコミュニティを維持するためには、循環を生まなくてはだめだっていうのは、ビジネス本とか、社会学とかそりゃもう色々な人が言っているけど、理論が実践できれば、戦争なんて起きないわけで…。

 

 ともかく、読書会というコミュニティに関しても、常に新しい人が来てくださるように意識しないと、毎回固定メンバー化が進み、だんだんとテンプレ化が進み、縮小しはじめるわけです。だから、新規の人が来てくれるようなコミュニティにするためには、宣伝の方法だとか、内容だとか色々考えないといけない。そんなわけで関西クラスタは、BBQやらラジオやら色々やっているわけです。

 しかし、ある程度読書好きの人がネット上で可視化されたといっても、リアルに読書会とかに出向くような人はまだまだ少数だと言わざるを得ない状況で、どうすればいいのか。

 

 関西クラスタの読書会で自分が意識しているのは、この3つです。

 

(1)「自分達が楽しむこと。それが内輪向け過ぎないこと」

 やっぱり人を動かす力って、「面白い」だとか「楽しい」だと思うので、そう思われるようには、パフォーマンスではなく、自分たちが本当に楽しめる読書会にすることでしかないと思うわけです。

 それにくわえて、ある程度ネタが内輪向けにならないとコミュニティとしての共通言語が育たない部分があるわけですが、内輪向け過ぎないように努力をしてはいます。

 

(2)「敷居を下げること」

 これは非常に重要なことで、「参加しやすさ」(本を読まなくてもおkな読書会は関西クラスタだけかもしれないw)もそうですが、「参加しなくてもいい」ということも重要だと思います。参加を強要しないこと。気が向いたときに、ふらっとこれるような読書会にしたいなーって思っています。

 

(3)「定期的に続けること」

 月1ペースで読書会を開くことで、今回行けなくても、次に行こうと思えるようにすること。これは、GACCOHっていう場所があるっていうことが大きいと本当に思っています。(これからもお世話になります太田さん!)

 

 まあ、こういうことを意識しつつ、過剰にエネルギーを使わず、ゆるゆると続けられたらいいなーと思っています。

 

4.宣伝!

 

 そんなわけで、色々と長々書いてきましたが、しかもほとんど本の本文には触れずに来ましたが、最後に読書会の宣伝です!(すべてこの文章はこのためにあった!)

 サイトでも告知しましたが、チャーリーこと鈴木謙介さんの『ウェブ社会のゆくえ』読書会をやります!

 

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鈴木謙介『ウェブ社会のゆくえ』読書会

日時:2013年9月28日(土)

第一部(読書会)15:00-18:00

第二部(懇親会)18:00-

場所:まちライブラリー@大阪府立大学

地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線) 1番出口より徒歩約7分

南海なんば駅 中央出口より徒歩約12分

参加費:

第1部(読書会) 学生/院生:無料  社会人:500円

第2部(懇親会) 学生/院生:500円 社会人:1,000円

*学生/院生の方は身分証をご提示ください。

詳しくはTWIPLAにて!

http://twipla.jp/events/62441

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まだまだ絶賛募集中ですので、よろしくおねがいしますー。

ではではーノシ


関西クラスタ・GACCOH・文化系トークラジオ Life 共催 /鈴木謙介『ウェブ社会のゆくえ』読書会 in まちライブラリー@大阪府立大学 

2013年9月28日
3:00 PMto6:00 PM

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関西クラスタ、GACCOHが鈴木謙介さんをお招きして新著『ウェブ社会のゆくえ』読書会を開催します。
各人がスマートフォンをもち、情報技術が現実空間を侵食〈多孔化〉している今日、私達はどんなコミュニケーションが可能なのでしょうか。『ウェブ社会のゆくえ』を通してこれからの生き方を考える読書会。『ウェブ社会のゆくえ』についてたっぷり語りたい方も、まだ読んでない方も、お気軽にご参加下さい!
さらに、
東京からのゲストとして、TBSラジオのラジオ番組文化系トークラジオ Lifeの長谷川プロデューサー、パーソナリティーの方々をお迎えします。
なにやらLifeメンバーによるトークセッションもあるとか!?
Lifeファンの方もぜひ!!
読書会詳細

 
鈴木謙介『ウェブ社会のゆくえ』読書会 
 
日時:2013年9月28日(土)
第一部(読書会)15:00-18:00
第二部(懇親会)18:00-
地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線) 1番出口より徒歩約7分
南海なんば駅 中央出口より徒歩約12分
参加費:
第1部(読書会) 学生/院生:無料  社会人:500円
第2部(懇親会) 学生/院生:500円 社会人:1,000円
*学生/院生の方は身分証をご提示ください。
参加方法:いずれかの方法でお申込みください。
①詳しくはTWIPLAにて!!
第1部(読書会)・第2部(懇親会)参加/不参加をコメント欄に記入ください。
②ツイッターアカウントお持ちでない方はこちら
 
 
テーマ本

 
+持ち物(余裕があれば)

これは『ウェブ社会のゆくえ』に関係しているのでは!と思う本を一冊お持ちください。
読書会ではその本をもとに話したり、読書会終了後、まちライブラリー@大阪府立大学に寄贈(希望者のみ)いただき、今回の読書会の本棚をつくります。
本棚はこんな感じです。
 
ゲスト紹介

鈴木謙介(すずき・けんすけ)
1976年、福岡県生まれ。
東京都立大学(現・首都大学)大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。
現在、関西学院大学社会学部准教授。専攻は理論社会学。
「文化系トークラジオ Life」(TBSラジオ)メインパーソナリティを務めるなど、多方面に活躍。
著者に
『ウェブ社会の思想』(NHKブックス)
『暴走するインターネット』(イーストプレス)
『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)
『<反転>するグローバリゼーション』(NTT出版)
『サブカル・ニッポンの新自由主義』(ちくま新書)
『SQ “かかわり”の知能指数』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)ほか。
8月に刊行した『ウェブ社会のゆくえ』(NHKブックス)が大きな反響を呼ぶ。
長谷川裕(はせがわ・ひろし)
1974年生まれ。
TBSラジオ「文化系トークラジオ Life」プロデューサー、黒幕。
ほか、「荻上チキ・Session-22」プロデューサー、「菊地成孔の粋な夜電波」プロデューサー。斎藤哲也(さいとう・てつや)
1971年生まれ。
編集者、ライター(サイトー商会)西森路代(にしもり・みちよ)
1972年生まれ。フリーライター。「K-POPがアジアを制覇する」著者。and more!

 場所

南海なんば駅 中央出口より約800m (徒歩約12分)

大阪府大阪市浪速区敷津東2-1-41 南海なんば第1ビル 3F


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【関西クラスタレコメンリレー】第二回 田川建三『イエスという男』by 朝永ミルチ


どうもー。しょへです。

なんやかんやで、もう9月です。

関西クラスタは、まだまだ今年中に読みたいって本がいっぱい、やりたいってこともいっぱいあるので、可能な限り頑張っていきたいです。

と、いうわけで、先月から始まりました関西クラスタレコメンリレーは、第二回目をお送りします。

今回は、前回『メタルギアソリッド』を読んだコロンブスさんのレコメンで朝永ミルチさんが、田川建三の『イエスという男』をレコメンしてくれます。

この文章は、とても分かりやすい「宗教学」入門としても読めるし、「宗教」と「宗教的なもの」についての議論をもっと突き詰めて考えれば、ネット上のあれやこれやについてもっとクリアに理解できるかも?とか読んでぼくは思ったりしました。(ちなみに、自分がおすすめする宗教学の本では、デュルケームの『宗教生活の原初形態』は一回は読んどくべきだと思います。)

ではではー、以下本文。

 

0はじめに

どうも、ミルチです。最近同人誌を出したので、皆さんよろしくお願いします(通販してます!⇒同人誌『カラフルパッチワーク』の通販に関して

今回は、田川建三の『イエスという男』を読みました。色々勉強はしていますし、年上に主張をぶつけたりしていますが、私見にまみれているだろうことを、先に断っておこうと思います。

基本的に自分の読書は、どう「いい読書」にするかということ、言い換えると、どうその本を読んで可能性を引き出し、ほんの一ミリでも楽しんでみせるかということを主眼に置いています(置きたいと思っています)。思想的にもそういう傾向はあるでしょう。これは注意点その2です。

さて、注意点はここらにします。……しかしながら、件の本について御託を並べる前に、誤解の多い「宗教」という言葉について触れておこうと思います。思うに、読書は読後の回り道こそが最も楽しいものなので。

*脚注*前振りは数字を、本編はアルファベットを、節記号として振ってあります。御託いいよって方は飛ばして本編へどうぞ。

 

1宗教について

アンソニー・ギデンズは宗教について、「人と人とを繋ぐものであると同時に、分かつものでもある」という趣旨のことを述べています。これを、共同体の凝集力を高めるものであると同時に、分断するものでもある、と言い換えてもいいと思います。

友達から「宗教って何?」って聞かれたとしたら、それは「世界に補助線を引く営みだ」と応じることにしています(今のところ)。しかも、それは個人的で私的な営みではなく、集団的で公的なものです。「補助線を引く」と、そこから、自分が自分で歩いていける(自律を伴う他律の可能性。他者に目配せするという意味では、自己を過信しない自己信頼の可能性)。それは必ずしも依存ではありません。

世界に対して引いた線の一本の端をたどると、自分が見ている世界の支えとして、もう一つの実在(つまり、ある種の「超越性」)を感じることができる。……とりあえず、そのように理解すればいいと考えています。

 

2宗教と「話のわかる奴」

ディープなニコ厨である真言宗の僧侶、蝉丸Pは、「宗教はかつて、インターネットくらいすごかった」と喩えています。その心を知るには、想像力をたくましくする必要があります。例えばこういうのはどうでしょうか。

《ひと山超えれば、風習も文化も言語も集団が住んでいる。またその先の川を超えれば、奇妙な風俗で、見たこともない肌の色。そのまた先は、破廉恥な服装、下劣な言葉遣い……。》

こういう自文化に相対的な差異は、徒手空拳で乗り越えるのは困難です。しかし、世界に対する補助線を共有していれば、話もままならなかった2つの集団の話がするっと通じるようになる。風習や文化が、それぞれ差異を伴いながら、強力な共通部分を持つようになるってことです。ツーカーってやつですね(死語)。魅力的なコミュニケーションも可能になる、そうi-Religionならね。

 

3「うんこな」宗教議論――「神は発明だ」論、について

あとは中二病的宗教軽蔑論にも言及しておきましょうか。「宗教も神も人間の発明、頭の中で作り上げたものに他ならない。だから、つまらない、信ずるに値しない、馬鹿げている」という論法で、宗教を吊るし上げたつもりになる残念な人は結構います。

「発明」ということでもって否定するなら、車や水道はどうなるのでしょうか。製造物の話じゃないと反論するなら、民主主義や愛、思想は、全て馬鹿げたものなのでしょうか。社会構成主義という考え方がありますが、あらゆる概念や理念、思想、言葉は少なからず社会的に構成されているものなのです(そもそも論)。生のままの《事実》なるものがあったとして、それを「認識」する時、具体的に「扱う」時、それを「話題」にする時、社会的構成抜きには考えられない。

「発明」を理由に宗教をあげつらう人は、きっと、人類の発達させてきた偉大な発明品たる「言語」すら持ち合わせていないのでしょう。

 

4「うんこな」宗教議論――日本を端から端まで「特殊」なことにしたい人、について

もう一点、日本は多神教だから云々、日本は宗教を通俗化する(どんな宗教も取り込んで、「日本教」的な何かにしてしまう)という話。ミルチャ・エリアーデの『世界宗教史』とかを読めば一発でわかりますし、なんならウィキペディアレベルの情報でもわかることなのですが、土着の風習と宗教が合体し(時に大幅に)改変される(ローカライズ)のは、世界のあらゆる所で起きている普遍的な出来事であって、日本の特殊ではありません。

そもそも、(一神教であれなんであれ)強権的に強引に推し進めるだけのものなのだとすれば、それが各地に「伝播」するでしょうか(特に「世界宗教」と言われるものはそうです)。そのような誤解のある典型として、芥川龍之介の『神神の微笑』という短編がありますけど、きっと芥川は宗教の知識がなかったのでしょう。ローカライズを伴わない宗教はありませんから。神々は世界中で「微笑」しているのです。

*脚注*神仏習合については、『日本思想史講座〈1〉古代』や、佐藤弘夫の議論、本地垂迹パラダイム論などをご覧になれば、より細かいレベルで同意頂けると思います。世界史レベルでの該博かつ精密な比較・探求ぬきに特殊性を訴えるのは、無知を表白しているに過ぎません。

 

A田川建三とか

さて本編。本編はちょっとだけです。田川建三という人そのものについては、ウィキも充実しているのでそちらをご覧ください。知識人や大学人だけでなく、一般読者にもかなりファンが多い新約聖書学者です。

文章は明快かつ痛快。相手の議論の突き崩し方も、(自分の知識とこの本で明らかにされる情報を信じる限り)誠実かつ正当で、単に「揶揄」したり、くさしているだけではありません。

批判もこの本の魅力ではあるのですが、やはり田川建三というと、ため息が出るほどかっこいい、脱神秘化されたイエス像でしょう。このことに触れるのは、またまた回り道が必要です。

 

B理想を抱きながら生きること――デューイとヘーゲル

リチャード・ローティが最も影響を受けた哲学者の一人、ジョン・デューイには『誰でもの信仰』という本があります(ローティが好んで引用する本のひとつ)。いくらデューイの英語が悪文でも、この本の主張そのものは単純。

この宗教論においてデューイは、「宗教(the religion)」と「宗教的なもの(the religious)」を分離せよ、と説きます。制度や組織、体系にまとめ上げられてしまった前者に、自己が抱き続け、絶えずそれを参照して自己反省し、前進を続ける契機とするような後者が回収されてはならない、と。

神学校を卒業している、かのヘーゲルにも、ある立場から見ればかなり《似ている》議論があります(別の立場から見ればかなり違うけど)。制度化され、義務と化した宗教は、規則ずくめで人を従属させる。そのような《客観的な》宗教は「死んだ宗教」であり、抽象化されてしまっている。

そうではなく、「生きた宗教」とは個性的なものだ。《主観的な》宗教は人間精神の内発性を重視するのだ、と彼は述べます。このように初期ヘーゲルの語彙では、「主観的」がかならず「能動性」と同じ側に立ち、主体的・内発的なものを指すことになります。宗教に対する態度のこの側面では、デューイとの共通点がないと言うのは嘘でしょう(それにデューイはヘーゲルの影響をかなり受けている)。

デューイのところまでくれば、あるいはもっと踏み込んでローティまで辿り着けば、実際に、あなたが信仰者であるか否かは問題ではなく、あなたが理想を持って生きているかどうかということが問われている。あなたという「作品」は、どこまで練り上げられたもので、どこまで熱い血を燃やしているものか、と問いかけているようにすら思えます。

C宗教批判が「宗教的なもの」の可能性を信じつつ連帯すること

《イエスは殺された男だ。ある意味では、単純明快に殺されたのだ。その反逆の精神を時代の支配者は殺す必要があったからだ。……体制への反逆児が、暗殺されたり、抑圧による貧困の中で死んでいったりしたあと、体制は、その人物を偉人として褒め上げることによって、自分の秩序の中に組み込んでしまう。……こうしてイエスも死んだあとで教祖になった。抹殺とかかえこみは、だから、本来同じ趣旨のものである。キリスト教は、イエスの抹殺を継続する抱え込みであって、決して、先駆者イエスの先駆性を後に成就した、というものではない。》

以上は、田川建三の『イエスという男』第二版、増補改訂版の冒頭12ページ目からの引用です。田川の研究が、ある意味では、決して孤立した営みではないことがお分かり頂けるでしょうか。三者は互いに視線を交差しないまでも、ある意味では方向性を共有し、連帯していることが伝わったでしょうか。

 

D「イエスという男」のかっこよさ

本書の「要約」は簡単です。先の引用や、タイトルに全てが現れています。しかし、大事なのはそんな「情報」ではないのです。ことに、田川のこの本は。

聞き覚えのある聖書のエピソードを引きながら、通常の解釈や理解を、ベールとして引き剥がす。するとそこには、「イエスという男」がいる。《彼》は、歴史の現状に決して満足しないで、熱い血を燃やしている。

「教祖」や「神」という言葉から連想するのからは程遠く、《彼》はとてもウィットに富んでいて、人のために真剣になれて、誰かの不当な状況に地団駄を踏んで怒ったり、泣いたり。自分の無力さを知っているから、とてもクールでも、シニカルでもあり、けれど自分の身が傷つくことを恐れず、自分だけ安全な場所にいたりはしない。自分でなく、誰かのために感情的にすらなる。クールに立ち回り、スマートな一面がある一方で、読む手に拳ができているくらい「見ていて」熱い男だ。

ヒューマニズムなるものがあるとすれば、手塚治虫の『ブッダ』みたいに「崇高な人もダメなことあるよね」とか「偉大な人間も『自分たちと同じ(ダメな)』人間だったんだ」という理解を誘うような、《後退的ヒューマニズム》であってはいけないだろう。

そうではないヒューマニズムとは、人間の可能性を称揚し、共に生きることを真剣に受け止める構えとでも言えるでしょうか。《彼》は、まさにそのような意味で、ヒューマニズムを生きながらにして体現している。

田川の描出する《彼》は、考え得る限り、最高に「倫理的」で、ページをめくりつつ常に《彼》に対して頭が下がる(そう、これは、読みつつ「自分なら…」と振り返り、悩む倫理の本でもある。倫理学書、とは言うべきではないのだろう)。元も子もない語彙で言えば、《彼》はとてもかっこいい。滅法かっこいい。とてつもなく、言葉がでないくらいにかっこいい。(世に乱発されるのと違って)本来「カリスマ」とは、こういう人を言うのだろう。神秘に訴えるとか、だますとか、すかすとか、秘術を明らかにするとか、巧みな話術でどうこうするとかじゃなく、振る舞いや生き方そのもので、その全てで、《彼》は語ってみせる。

 

Eそんなこんなで、少しだけ熱くなってしまう本

9.11以来、イスラームへの典型的な誤解とか(テロを擁護する宗教だ!とか)超絶広まりましたが、今はもう解けているのでしょうか。

例えばガソリンスタンドの店員さんが、セクハラを起こす事件があったとして、「ガソリンスタンドの店員はみんなセクハラ野郎だ」ということになるでしょうか。(すみません、ガソスタを例に出したのは特に意味は無いです)

宗教の看板をかぶって、高い壺を売りつける新興宗教があるとして、「全ての宗教は、金が目当てのクソだ」ということになるでしょうか。

非「ガソリンスタンドの店員」の方が、数としてもよっぽどセクハラしているでしょうし、宗教の皮なんてかぶらない方が面倒ないんだし、この世に詐欺野郎はどれほど跋扈しているかを、まさか知らないわけではないでしょう。

ネットに跋扈する宗教批判の大半はあまり意味がない。何かを解決するしないし、どこへも連れて行かない。それに、大抵スケープゴートがほしい人が、思い出したように「誰かが言った言葉を反復している」だけでしょうね。

逆に全ての宗教なり、宗教者が「健全」だとも限らないとは思います。しかし、理想としての《彼》を見つめながら、現状の自分を絶えず反省する人間を、「宗教的なもの」を生きる人を、どうして非難できるでしょうか。

……とか、ちょっと熱くなってみたりしました。結局、目の前の事例に対して個別や事象にアプローチするのが健全なのだと思います。

でも考えてみてください。「宗教は非合理的だ」と言う時や、「(自分たちの側は)合理的だ」と言う時の《合理的》という言葉は、「思考停止」の呪文になってはいないでしょうか。

中世キリスト教や、スコラ哲学が、単に神を信じるというだけのことで、あれほど膨大に「言葉」を生産してきたのか。仏教だって、「不立文字」とか言いながらも、信じられないほどの書物を著しています。このことを考えた時、思考を放棄のはどちらでしょうか。不合理なのはどちらなのでしょうか。

*脚注*このような「合理性」への反省の営みの一つが、フランクフルト学派だったりするのでしょうし、もっと遡れば、ウェーバーは《色んな》「合理性」概念を提出していることを思い出してもよいかもしれません。

 

F最後にもう一度脇道を逸れて。

いつか、「これからの時代、宗教は大事だ」って言う人は増えている気がします。自分が信仰を持っているかは別にして、そう言う人は結構いる。だから、さくっと橋爪大三郎の新書を買ったり、宮台真司から宗教論、宗教学の門を潜ろうとする人は多い。

はっきり言って、これはかなり危ない道だと思います。彼らは十分宗教や宗教学に通暁した上で語っているというよりも、とても強力な「俺宗教論」を語っているに過ぎないとも言える。

もし「あなた」が、宗教学や宗教に興味があるのだとしたら、悪いことは言いません、宗教学の教科書から始めてください。大まかに概論を知って、広く見渡した上で、気になる論者の本を読んでみてください。

本当に知りたいならば、ぜひ「狭き門より入」ってください(ジッドは割りと好きです)。

*脚注*すみません、長くなっちゃいました。