【関西クラスタレコメンリレー】第二回 田川建三『イエスという男』by 朝永ミルチ


どうもー。しょへです。

なんやかんやで、もう9月です。

関西クラスタは、まだまだ今年中に読みたいって本がいっぱい、やりたいってこともいっぱいあるので、可能な限り頑張っていきたいです。

と、いうわけで、先月から始まりました関西クラスタレコメンリレーは、第二回目をお送りします。

今回は、前回『メタルギアソリッド』を読んだコロンブスさんのレコメンで朝永ミルチさんが、田川建三の『イエスという男』をレコメンしてくれます。

この文章は、とても分かりやすい「宗教学」入門としても読めるし、「宗教」と「宗教的なもの」についての議論をもっと突き詰めて考えれば、ネット上のあれやこれやについてもっとクリアに理解できるかも?とか読んでぼくは思ったりしました。(ちなみに、自分がおすすめする宗教学の本では、デュルケームの『宗教生活の原初形態』は一回は読んどくべきだと思います。)

ではではー、以下本文。

 

0はじめに

どうも、ミルチです。最近同人誌を出したので、皆さんよろしくお願いします(通販してます!⇒同人誌『カラフルパッチワーク』の通販に関して

今回は、田川建三の『イエスという男』を読みました。色々勉強はしていますし、年上に主張をぶつけたりしていますが、私見にまみれているだろうことを、先に断っておこうと思います。

基本的に自分の読書は、どう「いい読書」にするかということ、言い換えると、どうその本を読んで可能性を引き出し、ほんの一ミリでも楽しんでみせるかということを主眼に置いています(置きたいと思っています)。思想的にもそういう傾向はあるでしょう。これは注意点その2です。

さて、注意点はここらにします。……しかしながら、件の本について御託を並べる前に、誤解の多い「宗教」という言葉について触れておこうと思います。思うに、読書は読後の回り道こそが最も楽しいものなので。

*脚注*前振りは数字を、本編はアルファベットを、節記号として振ってあります。御託いいよって方は飛ばして本編へどうぞ。

 

1宗教について

アンソニー・ギデンズは宗教について、「人と人とを繋ぐものであると同時に、分かつものでもある」という趣旨のことを述べています。これを、共同体の凝集力を高めるものであると同時に、分断するものでもある、と言い換えてもいいと思います。

友達から「宗教って何?」って聞かれたとしたら、それは「世界に補助線を引く営みだ」と応じることにしています(今のところ)。しかも、それは個人的で私的な営みではなく、集団的で公的なものです。「補助線を引く」と、そこから、自分が自分で歩いていける(自律を伴う他律の可能性。他者に目配せするという意味では、自己を過信しない自己信頼の可能性)。それは必ずしも依存ではありません。

世界に対して引いた線の一本の端をたどると、自分が見ている世界の支えとして、もう一つの実在(つまり、ある種の「超越性」)を感じることができる。……とりあえず、そのように理解すればいいと考えています。

 

2宗教と「話のわかる奴」

ディープなニコ厨である真言宗の僧侶、蝉丸Pは、「宗教はかつて、インターネットくらいすごかった」と喩えています。その心を知るには、想像力をたくましくする必要があります。例えばこういうのはどうでしょうか。

《ひと山超えれば、風習も文化も言語も集団が住んでいる。またその先の川を超えれば、奇妙な風俗で、見たこともない肌の色。そのまた先は、破廉恥な服装、下劣な言葉遣い……。》

こういう自文化に相対的な差異は、徒手空拳で乗り越えるのは困難です。しかし、世界に対する補助線を共有していれば、話もままならなかった2つの集団の話がするっと通じるようになる。風習や文化が、それぞれ差異を伴いながら、強力な共通部分を持つようになるってことです。ツーカーってやつですね(死語)。魅力的なコミュニケーションも可能になる、そうi-Religionならね。

 

3「うんこな」宗教議論――「神は発明だ」論、について

あとは中二病的宗教軽蔑論にも言及しておきましょうか。「宗教も神も人間の発明、頭の中で作り上げたものに他ならない。だから、つまらない、信ずるに値しない、馬鹿げている」という論法で、宗教を吊るし上げたつもりになる残念な人は結構います。

「発明」ということでもって否定するなら、車や水道はどうなるのでしょうか。製造物の話じゃないと反論するなら、民主主義や愛、思想は、全て馬鹿げたものなのでしょうか。社会構成主義という考え方がありますが、あらゆる概念や理念、思想、言葉は少なからず社会的に構成されているものなのです(そもそも論)。生のままの《事実》なるものがあったとして、それを「認識」する時、具体的に「扱う」時、それを「話題」にする時、社会的構成抜きには考えられない。

「発明」を理由に宗教をあげつらう人は、きっと、人類の発達させてきた偉大な発明品たる「言語」すら持ち合わせていないのでしょう。

 

4「うんこな」宗教議論――日本を端から端まで「特殊」なことにしたい人、について

もう一点、日本は多神教だから云々、日本は宗教を通俗化する(どんな宗教も取り込んで、「日本教」的な何かにしてしまう)という話。ミルチャ・エリアーデの『世界宗教史』とかを読めば一発でわかりますし、なんならウィキペディアレベルの情報でもわかることなのですが、土着の風習と宗教が合体し(時に大幅に)改変される(ローカライズ)のは、世界のあらゆる所で起きている普遍的な出来事であって、日本の特殊ではありません。

そもそも、(一神教であれなんであれ)強権的に強引に推し進めるだけのものなのだとすれば、それが各地に「伝播」するでしょうか(特に「世界宗教」と言われるものはそうです)。そのような誤解のある典型として、芥川龍之介の『神神の微笑』という短編がありますけど、きっと芥川は宗教の知識がなかったのでしょう。ローカライズを伴わない宗教はありませんから。神々は世界中で「微笑」しているのです。

*脚注*神仏習合については、『日本思想史講座〈1〉古代』や、佐藤弘夫の議論、本地垂迹パラダイム論などをご覧になれば、より細かいレベルで同意頂けると思います。世界史レベルでの該博かつ精密な比較・探求ぬきに特殊性を訴えるのは、無知を表白しているに過ぎません。

 

A田川建三とか

さて本編。本編はちょっとだけです。田川建三という人そのものについては、ウィキも充実しているのでそちらをご覧ください。知識人や大学人だけでなく、一般読者にもかなりファンが多い新約聖書学者です。

文章は明快かつ痛快。相手の議論の突き崩し方も、(自分の知識とこの本で明らかにされる情報を信じる限り)誠実かつ正当で、単に「揶揄」したり、くさしているだけではありません。

批判もこの本の魅力ではあるのですが、やはり田川建三というと、ため息が出るほどかっこいい、脱神秘化されたイエス像でしょう。このことに触れるのは、またまた回り道が必要です。

 

B理想を抱きながら生きること――デューイとヘーゲル

リチャード・ローティが最も影響を受けた哲学者の一人、ジョン・デューイには『誰でもの信仰』という本があります(ローティが好んで引用する本のひとつ)。いくらデューイの英語が悪文でも、この本の主張そのものは単純。

この宗教論においてデューイは、「宗教(the religion)」と「宗教的なもの(the religious)」を分離せよ、と説きます。制度や組織、体系にまとめ上げられてしまった前者に、自己が抱き続け、絶えずそれを参照して自己反省し、前進を続ける契機とするような後者が回収されてはならない、と。

神学校を卒業している、かのヘーゲルにも、ある立場から見ればかなり《似ている》議論があります(別の立場から見ればかなり違うけど)。制度化され、義務と化した宗教は、規則ずくめで人を従属させる。そのような《客観的な》宗教は「死んだ宗教」であり、抽象化されてしまっている。

そうではなく、「生きた宗教」とは個性的なものだ。《主観的な》宗教は人間精神の内発性を重視するのだ、と彼は述べます。このように初期ヘーゲルの語彙では、「主観的」がかならず「能動性」と同じ側に立ち、主体的・内発的なものを指すことになります。宗教に対する態度のこの側面では、デューイとの共通点がないと言うのは嘘でしょう(それにデューイはヘーゲルの影響をかなり受けている)。

デューイのところまでくれば、あるいはもっと踏み込んでローティまで辿り着けば、実際に、あなたが信仰者であるか否かは問題ではなく、あなたが理想を持って生きているかどうかということが問われている。あなたという「作品」は、どこまで練り上げられたもので、どこまで熱い血を燃やしているものか、と問いかけているようにすら思えます。

C宗教批判が「宗教的なもの」の可能性を信じつつ連帯すること

《イエスは殺された男だ。ある意味では、単純明快に殺されたのだ。その反逆の精神を時代の支配者は殺す必要があったからだ。……体制への反逆児が、暗殺されたり、抑圧による貧困の中で死んでいったりしたあと、体制は、その人物を偉人として褒め上げることによって、自分の秩序の中に組み込んでしまう。……こうしてイエスも死んだあとで教祖になった。抹殺とかかえこみは、だから、本来同じ趣旨のものである。キリスト教は、イエスの抹殺を継続する抱え込みであって、決して、先駆者イエスの先駆性を後に成就した、というものではない。》

以上は、田川建三の『イエスという男』第二版、増補改訂版の冒頭12ページ目からの引用です。田川の研究が、ある意味では、決して孤立した営みではないことがお分かり頂けるでしょうか。三者は互いに視線を交差しないまでも、ある意味では方向性を共有し、連帯していることが伝わったでしょうか。

 

D「イエスという男」のかっこよさ

本書の「要約」は簡単です。先の引用や、タイトルに全てが現れています。しかし、大事なのはそんな「情報」ではないのです。ことに、田川のこの本は。

聞き覚えのある聖書のエピソードを引きながら、通常の解釈や理解を、ベールとして引き剥がす。するとそこには、「イエスという男」がいる。《彼》は、歴史の現状に決して満足しないで、熱い血を燃やしている。

「教祖」や「神」という言葉から連想するのからは程遠く、《彼》はとてもウィットに富んでいて、人のために真剣になれて、誰かの不当な状況に地団駄を踏んで怒ったり、泣いたり。自分の無力さを知っているから、とてもクールでも、シニカルでもあり、けれど自分の身が傷つくことを恐れず、自分だけ安全な場所にいたりはしない。自分でなく、誰かのために感情的にすらなる。クールに立ち回り、スマートな一面がある一方で、読む手に拳ができているくらい「見ていて」熱い男だ。

ヒューマニズムなるものがあるとすれば、手塚治虫の『ブッダ』みたいに「崇高な人もダメなことあるよね」とか「偉大な人間も『自分たちと同じ(ダメな)』人間だったんだ」という理解を誘うような、《後退的ヒューマニズム》であってはいけないだろう。

そうではないヒューマニズムとは、人間の可能性を称揚し、共に生きることを真剣に受け止める構えとでも言えるでしょうか。《彼》は、まさにそのような意味で、ヒューマニズムを生きながらにして体現している。

田川の描出する《彼》は、考え得る限り、最高に「倫理的」で、ページをめくりつつ常に《彼》に対して頭が下がる(そう、これは、読みつつ「自分なら…」と振り返り、悩む倫理の本でもある。倫理学書、とは言うべきではないのだろう)。元も子もない語彙で言えば、《彼》はとてもかっこいい。滅法かっこいい。とてつもなく、言葉がでないくらいにかっこいい。(世に乱発されるのと違って)本来「カリスマ」とは、こういう人を言うのだろう。神秘に訴えるとか、だますとか、すかすとか、秘術を明らかにするとか、巧みな話術でどうこうするとかじゃなく、振る舞いや生き方そのもので、その全てで、《彼》は語ってみせる。

 

Eそんなこんなで、少しだけ熱くなってしまう本

9.11以来、イスラームへの典型的な誤解とか(テロを擁護する宗教だ!とか)超絶広まりましたが、今はもう解けているのでしょうか。

例えばガソリンスタンドの店員さんが、セクハラを起こす事件があったとして、「ガソリンスタンドの店員はみんなセクハラ野郎だ」ということになるでしょうか。(すみません、ガソスタを例に出したのは特に意味は無いです)

宗教の看板をかぶって、高い壺を売りつける新興宗教があるとして、「全ての宗教は、金が目当てのクソだ」ということになるでしょうか。

非「ガソリンスタンドの店員」の方が、数としてもよっぽどセクハラしているでしょうし、宗教の皮なんてかぶらない方が面倒ないんだし、この世に詐欺野郎はどれほど跋扈しているかを、まさか知らないわけではないでしょう。

ネットに跋扈する宗教批判の大半はあまり意味がない。何かを解決するしないし、どこへも連れて行かない。それに、大抵スケープゴートがほしい人が、思い出したように「誰かが言った言葉を反復している」だけでしょうね。

逆に全ての宗教なり、宗教者が「健全」だとも限らないとは思います。しかし、理想としての《彼》を見つめながら、現状の自分を絶えず反省する人間を、「宗教的なもの」を生きる人を、どうして非難できるでしょうか。

……とか、ちょっと熱くなってみたりしました。結局、目の前の事例に対して個別や事象にアプローチするのが健全なのだと思います。

でも考えてみてください。「宗教は非合理的だ」と言う時や、「(自分たちの側は)合理的だ」と言う時の《合理的》という言葉は、「思考停止」の呪文になってはいないでしょうか。

中世キリスト教や、スコラ哲学が、単に神を信じるというだけのことで、あれほど膨大に「言葉」を生産してきたのか。仏教だって、「不立文字」とか言いながらも、信じられないほどの書物を著しています。このことを考えた時、思考を放棄のはどちらでしょうか。不合理なのはどちらなのでしょうか。

*脚注*このような「合理性」への反省の営みの一つが、フランクフルト学派だったりするのでしょうし、もっと遡れば、ウェーバーは《色んな》「合理性」概念を提出していることを思い出してもよいかもしれません。

 

F最後にもう一度脇道を逸れて。

いつか、「これからの時代、宗教は大事だ」って言う人は増えている気がします。自分が信仰を持っているかは別にして、そう言う人は結構いる。だから、さくっと橋爪大三郎の新書を買ったり、宮台真司から宗教論、宗教学の門を潜ろうとする人は多い。

はっきり言って、これはかなり危ない道だと思います。彼らは十分宗教や宗教学に通暁した上で語っているというよりも、とても強力な「俺宗教論」を語っているに過ぎないとも言える。

もし「あなた」が、宗教学や宗教に興味があるのだとしたら、悪いことは言いません、宗教学の教科書から始めてください。大まかに概論を知って、広く見渡した上で、気になる論者の本を読んでみてください。

本当に知りたいならば、ぜひ「狭き門より入」ってください(ジッドは割りと好きです)。

*脚注*すみません、長くなっちゃいました。

 

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